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WILD LIFE

LIFE IS FLY FISHING

第五話 フライフィッシング記念日

阪東幸成=写真と文

彼は大学を卒業してから38年近く同じ会社で働きつづけた。

とりたてて賞賛されるべきことではない。日本人の多くが普通にやっていることだ。

彼はセールスマンだった。自分の仕事が嫌で嫌で仕方がなかった。


フライフィッシングを始めたのは28歳のときだった。

その年から「来年こそ会社を辞める!」と自分に 言いつづけたが、信頼している先輩から「フライフィッシングで食っていこうとすると、釣りが面白くなくなる。止めておきなさい」と諭されて踏み止まった。

ほんとうは「セールスマンで食っていくと、人生がつまらなくなる」と返したかったのだが、じっさいフライフィッシングでどうやって食っていけばよいのかもわからなかった。


そして37年半が経った。

思い返すと長いような気もするが「尺ヤマメを釣るぞ!」と念じたシーズンがただただ一年ずつ積み重なっていっただけのことだった。

スーツを捨てるのが彼の夢で、60歳になり、とうとうその日がきた。

ストレスと拘束の象徴であるスーツを捨てる日。

それは彼が残りの人生すべてをフライフィッシングに捧げる歓喜の日となるはずだった。

しかしタンスから引っ張り出してきたスーツ、ワイシャツ、ネクタイの小山を見つめていると自分の意思とは真逆に泪が溢れてきた。

彼は泣いた。

目が腫れ上がるほど泣いた。

スーツが憎むべき敵ではなく、じつは自分を守ってくれてきたヨロイであったことに最後の最後になって気づいたのだった。


彼には長年胸に温めてきたささやかな夢があった。

定年した翌夏にイエローストーン周辺でロッジを借りて、来る日も来る日も釣りだけをする。

小学生の夏休みの夢とほとんど変わらない。

そして彼はそのささやかな夢を実行すべく日本を発った。

東京は梅雨が始まったばかりで、ほとんど土砂降りだったが、雲の上に出ると美しい夕焼けがあった。

シアトルまで十時間足らず。

何もかもが愉しくて、眠れないのは当たり前としも、映画を観る気にすらなれなかった。

ただただワクワクして、窓外の雲を撮ったり、食事を撮ったり、釣りの本を読んだりしていた。

食事を運んできたフライト・アテンダントから「お仕事ではないですよね?」と訊かれるほど、小学生並みの興奮は他人の目にも明らかだったのだ。

彼は定年後に夢見ていたイエローストーンの長期滞在を実行すべく、今こうして飛行機に乗っているのだと答えた。

シアトルまで小一時間となったあたりでフライト・アテンダントがチームでやってきて、「長い間お疲れ様でした。定年おめでとうございます!」と言って、6つのフルーツが載ったプレートを持ってきてくれた。

ひとつ十年か、と思いながら右端のフルーツを口にしたとき、突然泪が溢れてきた。

なんだい一体全体どうなっちゃってるんだい、このオレは。

定年してから泣いてばっかりじゃないか。オマエはそんなにナルシスティックなヤツだったのかい?

バカバカしい、泣くのはやめよう、働きつづけ た37年半に釣り逃した数百匹をまとめて釣り上げるべく、モンタナの輝かしい太陽に顔を向け、自分の ほんとうの人生を取り戻すのだ。

そう、これがわたしの「フライフィッシング記念日」。



《Profile》
阪東幸成(ばんどう・ゆきなり)
アウトドア・ライター。バンブーロッドにのめりこみ、1999年に『アメリカの竹竿職人たち』(フライの雑誌社刊)を著す。2017年にふらい人書房を立ち上げ、以降『ウルトラライト・イエローストーン』『釣り人の理由』など、自身の著作を中心に出版活動を行なっている。最新刊は『ライフ・イズ・フライフィッシング シーズン1』。



ふらい人書房ホームページ
www.flybito.net

2019/6/27

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