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WILD LIFE

LIFE IS FLY FISHING

第十話 東京湾の夜

阪東幸成=写真と文

わたしはイブニングライズはやらない。夜の川が怖いからだ。少年のころから釣りが大好きなまま大人に移行したが、今でもはっきりと水を怖れている。

昼は陽の光で恐ろしさをごまかすことができているが、日が暮れると落ち着かなくなる。理由ははっきりとはわからないが、幼児のころに父に海に放り投げられたトラウマと思われる。家庭内暴力ではなく「お腹の中で泳いでいたんだから泳げるはずだ」と思った父のノーテンキさゆえのことだ。

今でもノーテンキな人といるとイラつく。たぶんそれは事実を知ったことによる後天的なトラウマだが、わたし自身がノーテンキなのは単なる遺伝だ。わたしに海に投げ入れられた記憶はないが、母に言わせると「お父さんがあんなバカなことしたから、幸成はプールに入れなくなったのよ」らしい。

幼いころはシャワーを浴びることすら怖かった。小学生時代、夏は水泳の授業になると具合が悪くなったり、ズル休みをして一度たりともプールに入らなかった。

中学生になってからもサボりつづけたが、どうしても回避できない水泳大会に向けてサマーランドで練習したことで、少しは水への恐怖心が薄らいだ。それでも水泳は苦手でありつづけ、高校では夏休みの追加補講までやらされた。

フライフィッシングにハマってからも、水の怖さは心の中に居座りつづけている。

ことに日が沈み、薄暮から夕闇に変わって、なお友人が水の中に立ち込んで釣りつづけていると落ち着かなくなる。膝下までの水深とわかっていても、暗くなってからは川を渡らないし、渡り返さないとならないポイントは明るいうちに対岸へ戻る。

だから当然イブニングライズを釣るのは苦手だ。

苦手だということを認めたくないから、夜はさっさと川を上がってビールで「オツカレサマ!」ということにしている。


そんなわたしが、先日友人のSさんに未体験のシーバス釣りに誘われて、ウッカリ「いいですね、釣りはともかく写真を撮りたいな」と言ってしまった。

2時集合と言われたから、やっぱり近場の釣りはラクだな、と思った。Google Mapで経路を調べると集合場所は家から30分の距離だったのだ。

その後、数度のメッセージのやり取りの中で、わたしは出港時間の2時半が14:30ではなく02:30であることを知った。

わたしの人生唯一の約束事は「釣りの約束は守る」という誓い(くわしくは拙著『ライフ・イズ・フライフィッシング シーズン1』所収「釣りが巧いと言われたい」をご参照ください)なのだから、急用を作るわけにもいかず、風邪をひくこともできなかった。ノーテンキな血をわたしに授けた父を呪った。

約束の時間に現地に到着して車のドアを開けると、あたりには下水の匂いが漂っていた。

ボートの発着所はマンションの裏手にあった。先に到着していたSさんは満面の笑みでわたしを迎えた。

「風が弱まりましたよ。爆釣まちがいなしです!」

釣り人はこうでなければならないというお手本がSさんなのだった。Sさんの相変わらずの楽観と熱狂に気持ちがついていけないまま、

「最近、Sさんと釣りをしていると、自分を釣り好きっていうのはおこがましいんじゃないかって思うようになりました」

「そんなわけないでしょ」

「いえ、Sさんの熱狂ぶりと比較すると、ぼくは釣りが好きとは言えないかもしれない。あるいは釣りが嫌いと言ってよいレベルかもしれません」

「あのですね、釣りが嫌いな人が年に2回もイエローストーン行きますか?」

「それはともかく、今日は写真班に徹しますから、Sさんどんどん釣ってください」と言った。

「そんなこと言って、ボイルしている魚見て、じっとしていられるわけないでしょ」

と笑ったSさんは、わたしの分のロッドも携え、いそいそという表現を具現化した人物となって船に乗り込んだ。

夜の東京湾は静かだった。そして美しかった。漆黒の海面は夜だから黒いわけではなく、昼でも黒いのかもしれなかった。

異臭の漂う海面を覆うねっとりとした黒さは不気味ではあったが、すべての汚濁を消しさる夜こそが東京湾にふさわしいのだとも思った。


停泊中の大型船にじわじわと接近してゆき、船の向きを整えると船長はSさんに「投げてください」と言った。

Sさんは慣れた様子で数度の鋭いフォルスキャストで大型のストリーマーを舷側すれすれにキャストした。

船を係留しているロープの下をラインのループが通過して行き、フライが着水した音がして、やにわにSさんはロッドを脇に挟んで両手でリトリーブを始めた。

船長の「おっ!」という声に呼応するように、Sさんの口から「キタッ!」という気迫のこもった声が漏れた。

アタリがあったのにロッドを持たず、リトリーブしつづけることは知らなかった。8番ロッドの強さに負けずにファイトをつづける魚の強さに驚いた。

すべてが密やかだった。

船長の声も、Sさんの声も、リールの音も、ラインが闇に伸びていく音も、デッキに落ちるラインの音も、すべてがしっとりと東京湾の夜の中に沈んでいった。

暗がりのなかにはイブニングライズのときのような怖さがなかった。あるいは船という安全な場所にいるからかもしれなかった。宮崎駿のアニメに出てきそうな闇の中に聳え立つ鋼鉄の怪物へ向かって船が進むと、海面に気配があって、魚がボイルした。

「バシャ、バシャ」「ボッ、ボッ」という音とともに、海面が白く泡立つ。

立ち上がって、手すりから水面を見つめる。停泊している船から漏れてくる明かりが揺らめく水面に、黒々とした大きな背中が見えた。

「もしかしたら、釣りが好きになったかもしれません」わたしはカメラをバッグに仕舞い、密やかに微笑むSさんからロッドを受け取った。



《Profile》
阪東幸成(ばんどう・ゆきなり)
アウトドア・ライター。バンブーロッドにのめりこみ、1999年に『アメリカの竹竿職人たち』(フライの雑誌社刊)を著す。2017年にふらい人書房を立ち上げ、以降『ウルトラライト・イエローストーン』『釣り人の理由』など、自身の著作を中心に出版活動を行なっている。最新刊『ライフ・イズ・フライフィッシング シーズン2』が好評発売中。



ふらい人書房ホームページ
www.flybito.net

2019/11/27

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